2008/10
電力王 福沢桃介君川 治


須原発電所
桃山発電所
桃介橋
柿其水路橋


福沢桃介には多くの逸話がある
 ・若い頃に肺結核で療養中に株投資を始め膨大な蓄財をした。この資金を活用して発電所を建設した。
 ・慶応義塾の学生の頃、日本橋葭町の貞奴が野犬に襲われたのを偶然通りかかり助けた。
 ・この貞奴は、芸者となって政界のお歴々に贔屓にされるが、川上一座の音二郎と結婚し女優として活躍する。
 ・川上音二郎が亡くなって寡婦となった貞奴と桃介は名古屋の二葉亭や南木曽の別荘で夫婦のように暮らし始める。
 ・桃介橋開通式も桃介と貞奴の二人ずれ、大井ダムの現場激励も二人ずれであった。
 ・木曽の住民は木曾檜の林業で暮らしているものが多く、木曽川はヒノキの輸送路であった。発電所建設による木曽川の水利権を争うのが島崎藤村の次兄で、妻籠本陣当主となる島崎広助である。
 ・福沢諭吉は株投機と妾は嫌っていたが、娘婿の桃介はこれを無視した。
 
 中山道を木曽川沿いに歩くと川沿いに瀟洒な建物が見られる。近くの山の斜面に導水管が見られるので発電所の建物だとわかる。これらの発電所を建設したのが電力王に異名のある福沢桃介であり、多くの発電所が、国の重要文化財や近代化産業遺産に指定されている。
 福沢桃介は明治元年埼玉県の出身であり、慶應義塾の学生の時、福沢諭吉の目にとまり、本人は辞退したのだがアメリカ留学の餌に釣られて養子となり、留学から帰国して明治22年に福沢の次女と結婚した。
 福沢諭吉から留学中に鉄道関係の調査を命じられていたようで、最初は北海道炭鉱鉄道に入社した。その後は王子製紙、日清紡績の取締役となり、電灯会社に注目して名古屋電燈取締役、九州電気取締役、四国水力電気社長、九州電燈相談役などを歴任し、木曽川の水力発電に着目する。
 名古屋電燈社長となるが個性の強い福沢桃介は地元出身の幹部と折り合いが悪く、大正7年に独立して木曽電気製鉄を興し、日本水力、大阪送電などを合併して大同電力を創設し、本格的に水力発電所の建設に取り組み始める。
 木曽川の寝覚ノ床で知られる上松の少し南、須原発電所の隣に関西電力の「木曽川電力資料館」がある。普段は無人の資料館のため、見学希望の申し込みをすると態々説明の方が上松から来てくれた。
 木曽川には現在32ヶ所の発電所があり、この資料館は昭和61年に1河川で100万kwの発電を達成したのを記念して創ったとそうだ。1階展示室は水力発電所の水車や発電機関係の機器が展示説明してある。2階は福沢桃介など木曽川開発に関わった人達の歴史的な展示説明である。
 福沢桃介が最初に建設したのは大正8年に竣工した賤母発電所で16,300kw、次が大正10年に完成した大桑発電所(12,100kw)、3番目が資料館のある須原発電所(10,000kw・写真)である。
 福沢桃介は続いて桃山発電所(24,600kw・写真)、読書(よみかき)発電所(42,100kw)、大井発電所(42,900kw)を建設し、大正15年に竣工した落合発電所(14,700kw)まで、7年間に7か所の発電所を稼働させている。これら発電所の建物はどの建屋も個性ある建築であるから楽しい。
 資料館の裏山に桃介公園があり、100万kw達成記念碑と福沢桃介の胸像がある。桃介の写真や胸像はざっくばらんな風情のものが多いが、この胸像はDr桃介であるから珍しい。
 木曽川は木曾御嶽山や木曾駒ケ岳から流れ出る川の水を集めた急流で、川の左岸には中山道が続き街道沿いの宿場町がある。したがって発電所は対岸(右岸)に建設されることが多く、工事は木曽川を渡る橋を造ることからはじまる。
 南木曽の読書発電所の建設資材を運搬するために造られた桃介橋(写真)は、長さ247m、主塔3基の木造の吊り橋で、修復されているとはいえ堂々たるつり橋である。読書発電所は読書ダムから導水管で水を引いているが、柿其川を渡る部分は全長142mの鉄筋コンクリート製の水路橋となっている。
 桃介橋のたもとに桃介の別荘があり、現在は福沢桃介記念館である。
 発電所本館、水槽・水圧鉄管、柿其水路橋(写真)、桃介橋が国の重要文化財に指定されている。
 秋の紅葉の季節には観光客で賑わう恵那峡、遊覧船が走る湖水は大井発電所の為に作られた大井ダムである。中央線の恵那駅付近は往時中山道の大井宿であり、この名が付いたものと思う。
 大井発電所は桃介が手がけた6番目の発電所で、我が国最初のダム式発電所である。ダム堰堤の長さは276m、高さ53mであり、木曽川の水流を堰きとめる難工事であった。工事途中に事故が発生し、更には関東大震災が起こり建設資金不足に陥るなど困難を極めたと言われている。大同電力社長であった福沢桃介はこの工事現場にしばしば足を運び現場の様子を視察すると共に担当者を励ましたとようだ。
 恵那峡を1周するトレッキング道路がある。ダムの堰堤の上を歩いて対岸まで行けるようになっている。堰堤の上から木曽川を眺めると、このダム工事のスケールの大きさが実感として分かり、今から80年以上前の土木技術も結構進んでいたと感心した。
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 福沢桃介は技術者ではなく、時代の風を鋭く読むベンチャー経営者であった。木曽川を流れる水は「熱や光のエネルギー」に変えられる無尽蔵の資源と目をつけた。「水燃而火(ミズモエシコウシテヒ)」「流水有方能出世(リュウスイホウアリヨクヨニイズル)」などの碑がある。大正時代にこれだけの工事を遂行しているのに、「伊達男福沢桃介」が目立ちすぎ技術者の働きが見えないのが寂しい。本来は「木曽川発電所を拓いた技術者の記録」を書きたかったのであるが。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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